「氷の回廊」 麦の宮殿 1
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八月下旬、村は黄金色の麦でいっぱいになります。
楕円形をした麦の畑は、リンシェの谷や尾根に沿って、緩やかに広がっています。そして、実りの香りが村いっぱいに広がっています。
なんていい香りなんだろう。
うっとりとしてしまう瞬間です。かつて日本にもあったであろう光景が、毎年刻まれるカレンダーのように、今年も規則正しくやってきたのです。
谷筋や尾根に広がる、緩やかに丸みを帯びた不思議な形の麦の畑。風が麦の穂の上を、生きた動物のように走ります。
初めてリンシェ村を目にした旅人たちは、麦の畑のあまりの美しさに吸い込まれてしまうかもしれません。ザンスカール地方で標高のもっとも高いこの村が、訪れる者にとって、オアシスのように目に映るのです。
リンシェの谷いっぱいに広がるあちこちの牧草地では、村の人たちが腰をかがめて、家畜のための牧草を刈り取っています。急ぎ足ですぐそこまで迫っている冬に備えて大忙しなのです。日の出とともに出かけ、カーブのきつい鎌で牧草を刈り取っていきます。斜面のきついリンシェの谷での仕事は、腰も痛くなりたいへんです。
刈り取った牧草の束は、ヤクの毛で編んだひもで束ねられます。この四メートルほどの丈夫なひもは、リンシェ村の人たちにとっては万能道具の一つです。荷物を束ねたり、ヤクやロバを繋いだり、家の補修にも使います。学校帰りのタムチョスは、これを納屋の屋上まで運ぶのが仕事です。一束二〇キロ。一二歳の少年にとっては、額に汗がしたたるほどの大仕事です。
パルモ母さんと娘のユンタンは、黄金色の村で毎日空を見上げ、その年最初の刈り入れの時を待っていました。この時期になると、夏の間、峠を越えていた隊商たちの姿が次第に少なくなります。それぞれの村に戻り、刈り入れの手伝いをするからです。天空には積雲が点々と広がり、ヒマラヤ晴れを約束しています。
「あと三日もすれば、刈り入れを始められるね」
パルモ母さんは、つないだユンタンの手をしっかりと握っていました。大麦の収穫は、リンシェ村の人たちの生活にとって、ヤクとともに一番のよりどころとなります。
丘の上に建つロブサンの家の屋根の上からは、刻々と黄金色が深まっていく麦畑を見渡すことが出来ます。麦の穂のざわめきが、涼し気な風にゆれています。
「あした朝早く、畑に水を入れるよ。ユンタン、悪いけど早起きして手伝っておくれ」
パルモ母さんはユンタンに頼みました。麦の畑に水を入れ、刈り入れしやすいように土を柔らかくするのです。
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